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歴史名城・邯鄲の世界遺産
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(1票) 更新日:2019年05月16日

邯鄲は戦国時代の趙の首府であり、三国時代に曹操の魏の国の都であった。日本ではとりわけ『邯鄲の夢』、『邯鄲の歩み』の故事によって有名である。世界遺産の武霊叢台、鄴(ギョウ)城遺址および趙王城跡など数箇所がある。

『趙王城跡』 



市の南西にあり、宮殿建築群の基壇が残っている。それに、中国で現存する唯一の戦国時代の古都の遺跡である。東・ 西・北の3城に分れ、「品」字形をなす。総面積512万㎡で、紫禁城の五倍くらいの面積。高さ3~8mの版築の城壁が蜿蜒と起伏し、雄大である。城内は竜台・北将台・南将台など版築の土台がきわめて厳正に配され、地中にかなり広範囲にわたって版築の基壇が残る。もっとも大きいのは竜台で、東西265m、南 北285m、高さ19mで、中心をなした宮殿の遺構。







『武霊叢台

武霊王は戦国時代趙の国の軍事家、政治家、改革家である。武霊王の指示で趙の軍隊が少数民族(胡人)を学び、裾が短い服を着、騎馬を練習して、胡服騎射と言う諺はこの人物からだ。その時、趙武霊王はよく叢台に立って、趙の天下の俯瞰した。多くの漢詩にうたわれた。





『黄梁夢呂仙祠』

道士・呂翁を祀る。「黄梁夢」の故事は、唐代の沈既済(約750~800)の小説『枕中記』に由来する。敷地は1万3000㎡余りで、西側の祠門をはいると、八仙楼閣が目に はいる。南側に「蓮莱仙境」という大きな字のある影壁、北側に丹房・蓮池があり、池に橋が架かり、橋の中央に八角亭が建ち、さらに北に進むと三大殿に至 る。前に鍾離殿、両側に鐘楼と鼓楼があり、中央が呂祖殿で、前方に拝殿、テラスの東西に配殿がある。後殿が盧生殿で、左右に回廊、殿前に碑碣がある。殿内 の盧生の石彫の臥像は寝台とともに大きな青石を彫りあげたもので、寝台は高さ2尺・長さ5尺で、盧生は方形の枕をして横たわり、両足をやや曲げ、きりっと ひきしまった顔つきで目をうすく閉じ、悠然たる表情をしている。北壁に黄梁夢の故事が描かれている。







『響堂山石窟』

北斉時代(550年~577年)に造られた仏教の石窟寺院。河北省磁県側に7窟からなる南響堂山石窟、武安県側により大規模な3窟からなる北響堂山石窟がある。







『媧皇宮』

媧皇宮は邯鄲市の西の太行山の支脈の緑に覆われて美しい唐王姣山に位置し、北斉に創建し、中国の今最大な上古天神の女媧を祭祀する廟宇である。後ろの 壁は八つの鉄製のチェーンで岩壁と繋がっている。観光客がいっぱい集まるとき、チェーンが延び、弓のように引張る。それで、吊廟、活楼とも言う。その建物は地勢の利用と設計配置のことで独創的に工夫を凝らして神技も及ばないと言える。媧皇宮外の断崖に摩崖仏経六部、十三万字あまりで、「天下第一壁経群」と 褒められ、我が国の仏教典籍のかけがえのない重宝である。







『鄴(ギョウ)城遺址』

春秋時代、斉の桓公が城塞都市を建設したのが始まりとされる。後漢末期から軍事的に重要となり、群雄のひとり袁紹の本拠地であったが、204年(建安9年)に曹操が侵攻して拠点となり、後に曹操が魏公に任ぜられると魏の国都と定め、銅雀、金鳳、冰井の三つの台がという三台を建てたが、現在では銅雀、金鳳の二台の基がなくなった。









歴史名城の邯鄲は上記にご紹介した遺跡はもちろん、ほかのいろいろな観光名所や世界遺産がある。中国古代史に興味を持っている方、ぜひ自身で歴史遺跡を見学しよう。



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